204通信

昭和薬科大学附属高等学校2年生の学年通信

第39号「表現に関する備忘録」

 

 

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※フリー素材.comさんよりお借りしました。

 学年通信を毎日書く。

 文章を毎日綴る。

 言葉を毎日紡ぐ。

 こうして、表現を日々繰り返す過程で〝表現〟そのものについて、つらつらと考えることが増えた。とりとめのない思いであり読者に伝わるかどうか心許ないが、私にとっては大切なことなので備忘録のつもりで書き留めておきたい。

①「発信と表現」

 私が日々行っていることは果たして「発信」だろうか。それとも「表現」だろうか。そもそも発信と表現とは何が異なるのか。気になると調べずにはいられない。ネットで検索すると以下の通りであった。

「発信」➡1 電信や電波を発すること。2 電報・郵便物などを送ること。3 情報などを知らせること。

「表現」➡心理的、感情的、精神的などの内面的なものを、外面的、感性的形象として客観化すること。              

(どちらもデジタル大辞泉より引用)

 やはりよくわからないが、発信とは「他者に送る」ことに力点が置かれるようだ。それに対して表現は、心という得体の知れないものに形を与える行為らしい。とすると、私の行為は発信よりも表現に近いかもしれない。高2生に送るべきものは確かに存在する。しかし一方で、それは言葉にするまで明確な形を持たない〝モヤモヤしたもの〟でもあるからだ。よく誤解されるのだが、私は「これを書こう!」と決めて文章を書くことがない。例えば、この学年通信にしてもモニターに向かい、キーボードに触れた瞬間に言葉が指先から放たれる感覚が強い。無形の情念を、懸命に文字に写し取りスケッチするイメージに近い。

 情報発信などという格好良いものではなく、ただひたすらに己の心を見極めたい欲求が学年通信の原動力かもしれない。そう考えるとなんとも自己満足な作業だと、我ながら苦笑する。

②「横書きと縦書き」

 これはもう確実に言えるが、縦書きと横書きとでは明らかに表現が変わる。これについてはけっこう前から自覚していた。きちんとデータを取ったわけでもなく数値的実証は出来ないが、身体的実感として明らかな違いを感じる。横書きで綴られる文章は硬く引き締まる。硬質な感触の語彙が好んで使われると感じる。更には書き手(私)と対象(文章)とに一定の距離感が生じる。少し遠くから表現を眺める感じと言えばよいか。一方で遊びが少なく、余韻が少ないと感じるときもある。自身の心に素直に寄り添った文章になっていない心持がするのだ。

 穿った見方をすれば、横書きの身体運動は〝イヤイヤ〟だ。視線も首も水平方向の運動であるがゆえに、首振りの拒否行動だ。それに比べ、縦書きには〝頷き〟の身体運動が伴う。視線が上から下に動き、顔全体が上下に動く様は〝肯定と共感〟の仕草である。心が寄り添う文章を書くために(少なくとも私は)身体が縦方向に揺れる「縦書き」が性に合っている。

③「心地よい字数」

 以前、新聞で連載させていただいたとき、紙面の都合で字数が厳格に定められていた。最大730字以内である。この字数は意外ときつかった。そもそも私は、字数を気にせず言いたいことを書き切ると、必ず1500字前後になる。1000字以下に抑えることはなかなか難しい。この学年通信も平均は1500字だ。心地よい文字数があるに違いない。読まされるほうは大変だろうが・・・。

 今日は、かなり個人的な話題を書いた。きっと私が書きたかったことは、こうして毎日綴る作業の喜びについてであろう。ああ楽しかった!読者のみなさんはどうだろうか。

 まっ、いいか!たまにはそんな日があっても!

 ちなみにここまでの文字数は1485字である。

(砂川 亨)