204通信

昭和薬科大学附属高等学校2年生の学年通信

第37号「存在を示すはずの〝ある〟が動詞であることについて」

 

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※「bokete」のサイトよりお借りしました。

 今日の午後、後輩との話で〝ある〟の話になった。

私「実はさ、昔から〝ある〟について疑問があるんだよ。」

後輩「疑問ですか?」

私「うん、動詞の〝ある〟ってさ、存在を表すくせに動詞だよね」

後輩(笑いながら)「そうですね」

私「〝ある〟っていう言葉には動きが感じられないのに、なんで動詞なんだろう。例えば存在詞みたいな名前でもよかったのに」

後輩「中国語でも〝有〟は動詞ですけど、一応別な語法になっていますよ」

私「ふーん、そうなんだ。英語もbeは存在を表すのに〝be動詞〟って言うし」

後輩「そうですねー」

私「もっと言わせてもらえばさ、普通反対言葉で同じ品詞でしょ?高い・低いとか、走る・止まるとか。なのに〝ある〟っていう動詞の反対は〝ない〟っていう形容詞なのも納得いかないよね」

後輩「それって哲学の視点から論じた文章を読んだことがありますよ」

私「へー、そうか、ここからは哲学の領域なんだな」

という具合である。

 私のくだらない話につきあってくれた後輩に感謝するが、それにしても〝ある〟は奥深い。どうして〝ある〟が動詞なのか。後輩の推測では古代中国語、つまり漢文の影響ではないかということだった。それも確かにあるだろう。日本語の大部分は多分に漢文の影響を受けているに違いない。けれど、洋の東西を問わず「存在」を示す言葉が動詞に分類される様子を見ると、そこに人間の思考の原点が見える気がする。

 ここからはあくまで私見だが、現代に比べ昔は遥かに存在が困難だったのではないか。人の命、家族としての時間、苦労して育てた野菜の賞味期限、やっとつかみ取った幸せ。いずれもがあっというまに目の前から去ってゆく。指の間から砂が零れ落ちるごとく、すり抜けてゆく。流れ出し、連れ去られてゆくものを、イマ・ココに留めおくこと。すなわち存在させることは、まさに知恵を絞り、力を合わせ、苦闘の果てにようやく為すことが可能な、立派な動作=動詞だったのではあるまいか。私たちが考えている以上に〝ある〟状態を維持すること、存在を保つことは能動的営為なのではないか。昔の人のこの感覚が英語も中国語も、そして日本語をも存在を動詞に組み込ませる原動力になったとは考えられないだろうか。

 私たちの社会は新型コロナウイルスの登場によって一変してしまった。かつての社会、かつての生活はもはや戻ってこない気がする。それでもなお、古き良き時代を思い起こし、その理想に少しでも近づこうとする私たちの懸命な努力という行為。それこそが、私たちを人として〝あら〟しめているのだと感じる。

 たわいのない話ではあったが、何かをつかんだ気がした一日であった。

 明日も、明後日も、常に学べる自分で〝ある〟ことを願う。

(砂川 亨)