204通信

昭和薬科大学附属高等学校2年生の学年通信

第36号「束縛からの自由 欲望からの自由」

 

f:id:SHOYAKU-46-H2:20200525211538j:plain

Wikipediaよりお借りしました。

 今日は〝自由〟について話してみたい。

 私たちが通常〝自由〟という言葉を用いるとき、そこには自由を阻むものが意識される。自身を縛り、身動きを妨げる不自由な状態。そこから解放されることを人は〝自由〟と呼ぶ。新型コロナウイルスで、行動が規制されている。あー、早く自由になりたい。毎日受験勉強に追い立てられる。合格したら自由だ!病気で医者から食事を制限された。自由に何でも食べたいなあ!

 私たちはいつも何かしらに不満を抱き、そこから放れて好き勝手に動きたいと願う。それがかなうと〝自由だ!〟と感じる。しかし本当にそうだろうか。それが〝自由〟の正体なのか。もしも束縛からの、ルールからの、厳しい抑制からの解放のみを〝自由〟と呼ぶならば、私たちは一生〝自由〟を味わえない。なぜなら全ての束縛、全ての決まりやルールから解放されることは、人間社会の一員として生きる以上不可能だから。どれほどの独裁者であっても、必ず従わなければならないルールがある。例えば自然の摂理。暴飲暴食を繰り返せば体調を崩し、ひたすら享楽に耽れば、精神が堕落する。もちろんこれらも一つの〝自由〟には違いない。しかしそれは刹那的であり、幻である。

 本当の、と言えばおこがましいが、よりよい〝自由〟を一つ想像してみよう。

 例えば必要だから存在するルール。もしも不要であったり、有害であるならば声を上げて変えればよい。とりあえず多くの人が渋々ながらも従うルールには、それを守ることでより大きな利益、幸せがくると信じられるから。新型コロナをこれ以上拡大させないために。再び楽しく友だちとおしゃべりしながら、食事をするために。今だけ、少しだけ我慢する。そのルールは確かに面倒だが、頑張った先にはきっとよりよい日々が待っている。そう思えるから人はルールに従う。

 とすれば、よりよい〝自由〟は、欲望から解放されるときに訪れるのではいか。俺は今すぐ遊びたい!こんなルールは破ってやれ!おーい、みんなで丸くなって弁当食おうぜ~。これではその瞬間しか〝自由〟を手に入れられない。それよりも、今すぐ遊びたいという「欲望」から自由になるほうがいい。自分を縛る数々の「欲望」から解き放たれ、むしろルールの中でも淡々と、粛々と過ごす心の穏やかさを手に入れる。それこそがよりよい〝自由〟とは言えないだろうか。

 昔の人はこれを『知足』と呼んだ。自身の内面を満たすことで、外からやってくる欲望からの〝自由〟を得る。それは最も平安をもたらす〝自由〟だろう。

 龍安寺の有名な庭。その裏手に「蹲」がある。

※蹲=「つくばい」と読む。茶室の前に置かれて、手などを清める手水鉢(ちょうづばち)のこと。

 この蹲には上から時計回りに「五・隹・止・矢」の文字が配置されている。よく見ると、中央には四角い水溜まり。その四角形を漢字の「口」に見立て、先ほどの漢字と組み合わせると「吾・唯・足・知」となる。そう、〝われただ足るを知る〟。この言葉は人が欲望から解き放たれて、自身の内面の平安を求めることこそ、よりよい〝自由〟であることを教えてくれる。

 何かとしがらみを多い現代社会。どれほど束縛からの逃れようとも、上手くいかない。ひと時の楽しみを求めても束の間の〝自由〟を味わうだけ。ならば自らの欲望を見据え、そこからの解放としての〝自由〟を目指すのもありかもしれない。

 今日は高2生には少し難しかったかな?でもね、今が本当に我慢のしどき。友達と一緒に弁当食べたいだろうが、今はルールに従おう。