204通信

昭和薬科大学附属高等学校2年生の学年通信

第35号「自粛警察」(追記あり)

 

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HTBニュースよりyoutube経由でお借りしました。

 自粛警察。最近よく耳にする言葉だ。新型コロナの影響によって、様々な方面で自主的な自粛が求められている。その流れに少しでも背く行為を見つけると制裁を加える。他府県ナンバーへの落書き、営業店への暴言、更には直接乗り込んでの説教など。糾弾する本人は〝正義〟の名の下に行っているつもりなので、行動に躊躇がない。ともすれば「何が悪い」と開き直る。閉塞した社会にストレスを溜め込み、そのはけ口としての行動であると論じられてもいる。

 正義を振りかざす行為は、今に始まったことではない。私が知る限りで最も古い自粛警察のお話は聖書に出てくる。戒律を破った女性を連れてきた人々が、彼女に罰を与えるべきか否かとイエスに問う。イエスは「今まで罪を犯したことのない者は石を投げるがよい」と言いつつ、一人一人の前に立ち枝で地面に字を描く。その文字を見た人は、次々に広場を立ち去り、とうとう誰も居なくなった。イエスは女性に「お前を罰する者は誰もいない。私もお前を罰しない。これからは罪を犯さぬように」と告げる。実は、イエスが地面に書いた文字は、そこに居た人々が犯した罪であった・・・。時代も文化背景も異なるが、この話はとても深い示唆を私たちに与えてくれる。

 他者を叱り、戒めることがある。大人になれば子供を、教師ならば生徒を、上司ならば部下を。過ちを犯した者に対して、私たちは叱責する。それは必要なことであり、大切なことだ。人はときに怒られて気づき、叱られて反省する。人の成長には欠かせないことだとすら思う。昔、親から「人は怒られている間が幸せなんだよ」とよく言われた。本当にそのとおりだ。

 それでもなお誰かを怒るときに〝自分にその資格はあるのか?〟と問いかけなければならない。自らに過ちはないか、自身は叱るほどの人格を持ちうるか。常に問いかけなくてはならない。自らを絶対化し〝おれは正しい、お前は間違っている〟と言い切るとき、人はすでに自らを見失う過ちを犯している。

 「えーっ、それじゃあ誰も叱れなくなるじゃん。親だって先生だって、警察だってもともとはただの人なんだから、叱る資格なんてねーじゃん」

 確かにそうだ。この言葉に反論する術はない。だから人は立場で叱るべきだ。親は親として、教師は教師として、上司は上司としての立場で、子を、生徒を、部下を叱る。自らにも欠点、弱点、反省点はあるけれど、それをいったん飲み込んで、立場として叱る。それ以上でもそれ以下でもない。

 そしてそれ以上に大切なことは、叱る側が常に自らの行為について思い悩み、もがくことだ。立場上仕方ないとは言え、自らを棚に上げて叱ることへの葛藤や逡巡を忘れてはいけない。むしろ葛藤や逡巡を内に抱きつつ他者を叱るとき、その叱責には思いやりや寄り添いが生まれ、深みも重さも加わる気がする。

 自粛警察の「警察」が意味することは、本来他者を糾弾する資格も立場も持ち合わせない者が、自らの弱さ、卑小さに葛藤することも逡巡することもなく、まさしく「棚上げ」状態のままで他人を追い詰める様子への皮肉である。当の警察からすればいい迷惑である。

 他者を責める前に、他者を叱り飛ばす前に、まず自らを自省したい。そしてそれでもなお、叱るべき、責めるべき、糾弾すべきと感じる時は、葛藤や逡巡を忘れずにいたい。そしてあくまで「立場」として叱っていることをわきまえたい。

 教師ならばなおさらだ。

(砂川 亨)

追記 文中で聖書を引き合いにしつつ、「戒律を破った者」について述べたが、自粛警察の攻撃対象にされてしまった方々の大部分は、例えば自粛対象外の店舗であったり、県内在住だがたまたま他府県ナンバーである、といった人々であることは念のために申し添えておく。仮に自粛要請に応じていない店舗であったとしても、だから人権を脅かす攻撃をしてよいはずはないことも当然のことである。