204通信

昭和薬科大学附属高等学校2年生の学年通信

第34号「チャーリング・クロス街84番地」

 

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※アマゾンからお借りしました。

 私は本も映画も「たくさん派」ではない。どちらかと言えば少量派だ。それでもわい頃は、意図的に読書量を増やしたりもした。しかしそれは、どちらかと言えば勉強のためであり、いわゆる〝読書の楽しみ〟とは異なる。カップから漂う珈琲の薫りを従えつつ、1ページ、また1ページと、指先と耳に流れ込む紙の感触を味わいながら読み耽るための本とは、なかなか出合わない。月に1冊見つかればよいほうか。映画の場合は猶更である。別な作業をしながら横目で見やる娯楽映画ならばいざしらず、ソファーに体を預け、〝イマ・ココ〟を忘れられる映画に出会うことは(私にとっては)稀である。

 実は、もともと映画を見ることが得意ではなかった。〝得意〟という表現がピンとこない人がいるかもしれない。ただ、私にとっては映画は「好き/嫌い」よりも「得意/不得意」の言葉がしっくりくる。映画が〝不得意〟であることは、子どものころから漠然と感じていた。映画を見ることに臆病だった。その理由が自分でもよくわからなかったが、大学生のときにふと気づく。

 それは〝刺激の強さ〟だった。

 本は自分のペースで読める。行間を滑る視線、ページをめくる指の動き。すべて自身が制御する。物語が急展開するときは、落ち着くためにわざと視線を泳がせ、時には一旦本を閉じる。物語に心が振り回されないために。感動の主導権を奪われないために。哀しい予感がよぎるときは、心が負荷に耐えられるよう言い聞かせながら、続きをそっと覗き込む。辛さで茫然としないために。打ちのめされないために。本の最も良いところは、常に私の手に物語が握られている安心感だ。

 映画は違う。支配者は常にスクリーンの向こう側。私は喜びも悲しみも、笑顔も涙もただひたすらに受け入れるしかない。心が追い付かない。心が耐えられない。ストーリーがわからないという意味ではない。ストーリーの重さに寄り添うこと、主人公の心の揺れに同調することが、ときどき苦しくなる。終わった後、考え込んでしまう。あの場面の彼の喜び、このシーンの彼女の悲しみ。そして物語の続き。余韻だけが大量の宿題のように残り、途方に暮れてしまう。

 だから、映画は淡々と進むものが好きだ。事件や事故や特別なことは何も起こらない。物語が穏やかに流れ、俳優の名演技がいぶし銀のごとく光る映画に惹かれる。最近はだいぶ心が鈍感になったおかげで以前ほど苦しくならずに済むが、やはり映画は静かに進むものが心に残る。

 前置きが長くなったが、こんな私が最近心に残った映画。それが「チャーリング・クロス街84番地」(NETFLIX)である。NYに暮らす中年の独身女性が、古書を求めて英国の古本屋に注文を出す。客と本屋が通信販売のために始めた注文のやりとりは、やがて商売を超えて、友情にも似た結びつきを持つ。恋愛、推理、ホラー、アクション。今時の映画の要素は何一つない。特別な設定も一切ない。たんたんと両者の交流が1950~1960年代の時代背景とともに続き、そして終わりを迎える。

 詳細をここでは明かさないが、とても良い映画だった。主演の二人がともに素晴らしく、古書店員役のアンソニー・ホプキンスはまさに名演だった。主人公のアン・バンクロフトも味わい深かったが、ネットで調べたところ、なんと!「奇跡の人」のサリバン先生役の女性だった。どおりで上手いはずだ。

 ちなみにこの映画は原作があるらしい。今度は本で読んてみたい。本ならばなおさら惹かれる物語だろう。美味しい珈琲を用意しておかなくちゃ!

(砂川 亨)